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城の防備、高松城と丸亀城 [城]

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高松城(艮櫓)    バーズアイ、香川(高松城)

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丸亀城(天守)    バーズアイ、香川(丸亀城)


近世の城郭は威厳を示すために豪華なものになりましたが、その一方で、攻城戦の防備も十分に考慮されていました。侵入する敵を寄せつけない仕掛け、敵を狭い場所に封じ込める仕掛け、侵入する敵兵を攻撃する仕掛けなどいろいろな工夫がなされました。

海城の高松城には、海城特有の防備が備わっていました。それでは、高松城の防備とは、何だったのでしょうか?防備に関係ないものを選んでください。

Q:高松城の防備に関係のないものとは・・?

A1.一つの鞘橋でつながった天守
A2.3重の堀
A3.切り込みはぎで築いた石垣
A4.城の周囲の城下町

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一方、平山城の丸亀城には、戦国山城にはない防備が備わっていました。それでは、丸亀城の防備とは、何だったのでしょうか?防備に関係ないものを選んでください。

A1.らせん状に配置された郭
A2.城の周囲の城下町
A3.大手門の枡形
A4.月見櫓

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海城は平城であっても水攻めができない、背後の海に逃げることができるなどの利点があります。さらに、城の周りの城下町や3重の堀が城を防備します。孤立した天守によって、敵の包囲から海水堀で逃れることができます。

また、平山城は戦国平城の深田の代わりに、水堀で守られました。さらに、城周囲の城下町や螺旋状配置によって天守までの距離を伸ばした郭が城を防備しました。また、大手門以外にも二つ以上の門や番所がありました。


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城の威厳、高松城と丸亀城 [城]

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海から見た高松城 (天守ではない)  バーズアイ、香川(高松城)

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海から見た丸亀城 (石垣の上に天守)  バーズアイ、香川(丸亀城)

近世、戦国時代が終焉を迎えて大きな戦がなくなると、武士の城は戦いの城から統治の城へと、その役割を変えていきました。そのため、城は領民を威圧するための威厳をもつようになりました。

高松城は、豊臣秀吉の四国平定後に入部した生駒氏によって威厳をもって築かれました。藤堂孝高氏の設計といわれ、海と海水を巧みに利用して防備を固めた本格的な海城でした。生駒氏の改易後、水戸の徳川光圀の兄、松平頼重氏の居城になりました。それでは、高松城にみる城の威厳とは、何だったのでしょうか?


Q:高松城の威厳とは・・?

A1.船着き可能な門
A2.3重の堀
A3.海水の堀
A4.24m高の天守

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一方、丸亀城は西讃統治のための生駒氏の支城でした。生駒騒動後、山崎氏が入城し、石垣などの大改修を行いました。現在の丸亀城は山崎氏改修後の様相を残していると言われます。その後、山崎氏は改易され、京極氏の居城になりました。それでは、丸亀城にみる城の威厳とは、何だったのでしょうか?

Q:丸亀城の威厳とは・・?

A1.小ぶりの天守
A2.総稿60mの扇の勾配をもつ石垣
A3.2重の水堀
A4.大手門の枡形

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近世海城として名を馳せた高松城は、攻城戦の防備もさることながら、航行する船から”城が見える波の上”と言わしめたほど豪華なものでした。他に、巨石を用いた枡形や巨大な敷地は城の威厳を表すものでした。

丸亀城は亀山という小丘に築城された近世平山城です。攻城戦の防備もさることながら、上部になるほど垂直になる扇の勾配と呼ばれる美しい石垣は海からも見えます。他に、城を雛壇風に見せる一二三段で築かれた石垣や巨石を用いた枡形は城の威厳を表すものでした。

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鬼が島と讃岐の桃太郎 [城]

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女木島  

お伽噺の桃太郎のモデルになったのは岡山地方を平定した吉備津彦命といわれています。讃岐香川では、弟の雅武彦命が鬼が島の鬼を退治しました。昭和の初め、鬼の根城らしき洞穴が女木島で発見されています(写真)。海賊の隠れ家だったといわれますが、固い溶岩の下に軟らかい凝灰岩の層があって、その層に洞窟があります。

一方、讃岐の桃太郎の伝説は明確なものではなく、主に地名に由来するといわれます。鬼が退治されていなくなった鬼無(きなし)のみでなく、3人の家来に由来するものもあります。犬は犬島の水軍、雉は雉が谷の弦打ち、猿は猿王に住む焼物師らが家来だったそうです。ところが、この中で一つだけ讃岐香川にない地名があります。それはどれでしょう。

Q:讃岐の桃太郎に登場する地名で、香川県にない地名は?

A1.雉が谷
A2.鬼無
A3.犬島
A4.猿王

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鬼が島,香川(女木島) [城]

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女木島   バーズアイ、香川(桃太郎)

お伽噺の桃太郎は、鬼が島に鬼を退治に行きます。一般に、桃太郎のモデルになったのは岡山地方を平定した吉備津彦命といわれています。ここには、その鬼が棲んでいた鬼ノ城が残っています(こちら参照)。鬼は城の城主だったのです。一方、香川、讃岐にも桃太郎伝説が残っており(こちら参照)、吉備津彦命の弟、雅武彦命が鬼が島の鬼を退治しました。昭和の初め、鬼の根城らしき洞穴が女木島で発見されています。鬼の正体は、どうやら瀬戸内海の海賊だったようです。いわゆる「城」ではありませんが、海賊の城とも受け取れます。それでは、讃岐の桃太郎に退治された讃岐の鬼はいったいどんな城に棲んでいたのでしょうか。

Q:讃岐の桃太郎が退治した鬼が島の洞穴はどのようにしてできたのでしょうか?

A1.人がてで掘った
A2.溶岩が固まる時にできた
A3.海水の浸食でできた
A4.火山の火口だった

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女木島には、鬼の財宝が隠されていた?大洞窟があります。海賊の隠れ家だったといわれますが、屋島と同様の溶岩台地の女木島ですが、固い溶岩の下に軟らかい凝灰岩の層があって、その層に洞窟があります。溶岩台地の贈り物です。



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古代山城:屋根の城 [城]

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屋島の城(城門跡) バーズアイ香川

7世紀、唐と新羅に滅ぼされた百済と同盟国にあった日本は、百済再興のために大軍を送ったが、白村江の戦いで大敗しました。唐・新羅軍の報復を恐れた天智天皇は、九州や瀬戸内海沿いに古代山城などの防衛用の砦を築き、北九州沿岸には防人を配備しました。それでは、なぜ天智天皇は瀬戸内海沿岸に多数の城を築いたのでしょうか。

Q。古代山城が、瀬戸内海沿岸に築かれたのは・・・。

A.瀬戸内海の山は低かったから
B.瀬戸内海の塩が大切だったから
C.瀬戸内海の魚を獲られると困るから
D.瀬戸内海が交通の要衝だったから

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屋島の城は日本書紀にも記載された古代山城で、近年郷土歴史家の手によって再発見されました。山頂近くの溶岩の崖を城壁にした自然の要害といわれます。溶岩の崖が途切れた所に、石塁や土塁を置いて城壁を完成させたようです。従って、典型的なメサ台地といわれる屋島の平坦な部分が城内となり、香川の戦国山城と比べると巨大であることが分かります。築城の目的が違うため当然ですが、その後戦国時代に山城として使われることがなかったのは、籠城するには城内が巨大すぎるためかと想像されます。

日本書紀などに記述がないものの、同様の古代山城の遺構としては、岡山の鬼の城や香川の城山の城などがあります。


屋島の城パンフレット





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山城、廓 [城]

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連郭跡 バーズアイ・香川(西長尾城)

戦国時代の山城の大手道には、小さいながら数多くの曲輪(郭)が配置されました。城が築かれた山の尾根沿いに建てられたようです。それでは、山城はどうして有効だったのでしょうか。

Q.山城では、尾根に多数の郭が築かれたのは・・なぜ?

A. 食料を保管するため
B. 兵を駐屯させるため
C. 女を住まわせるため
D. 敵の侵攻を妨げるため

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戦国の山城は、大軍に攻められたときの籠城戦に使われましたが、山上からの攻撃のみでなく、敵の侵攻を妨げるさまざま仕掛けがありました。通常、急峻な崖で守られているため、通路は尾根沿いにあります。その通路上に郭をおいて敵の侵攻を妨げる構造になっていました。


西長尾城は、室町時代に後の幕府管領になった細川頼之に従い、白峯の合戦で軍功をおさめた長尾氏の居城です。複数の支城をもっていました。戦国末期に、土佐の長宗我部氏が讃岐に侵攻してきた際に、天霧城主香川氏の仲介で開城し、長宗我部氏の軍門に下りました。西長尾城は讃岐の街道を見渡すことのできる立地にあったため、長宗我部氏の重臣の国吉氏が入城し、讃岐攻略の拠点にしました。そのため、国吉城とも言います。写真は、郭跡(連郭)。

バーズアイ・香川(西長尾城)




海城(その特殊な役割) [城]

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引田城(山頂に引田城跡がある) バーズアイ、香川

戦国時代、大軍の攻撃から逃げ込んだのち、上から攻撃するのに格好な山城、あるいは敵兵の足をぬかるませる平城がつくられました。これらは、防戦用の城として秀逸だったようです。これらのほかにも、岬や海岸の平山に海城が築かれました。海城は、山城のような急峻な山ではなく、岡のような平山につくられたようです。この海城にも特殊な役割があったようです。


Q.戦国時代、海城の特殊な役割とは・・?

A. 水練の練習をする
B. 海を見張る
C. 水軍の拠点とする
D. おいしい魚をとる

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海城の目的は、主に水軍の拠点となった湊の防御や水軍の指揮だったといいます。また、貿易の盛んな湊ではその統治も重要な役割といえます。防戦のための城というよりは、出陣の城あるいは見張りの砦と言えます。しかし、完全に無防備という訳ではなく、ふつう海城の周囲は海で囲まれ、海自体が堀の役割を果たしています。

引田城は香川県の東の端、徳島との県境に近い岬に築城された城です。瀬戸内海とはいえ、小島の少ない開けた播磨灘に面し、海を見張るには都合の良い立地と言えます。引田城は香川県東部の豪族、寒川氏の家臣の築城とされ、寒川氏の水軍、あるいは貿易の拠点である引田浦を統治する城でした。室町時代、讃岐を支配した細川氏が応仁の乱以降衰退すると、細川氏の家臣だった寒川氏は中国の雄大内氏に近づき、その庇護のもと勘合貿易で潤いました。その中心的な役割をになったのが、引田浦と引田城ということです。

しかし、戦国末期、阿波(徳島)の三好氏が勢力を強めると、三好とその姻戚関係にある十河、さらに安富氏らに攻められて、引田城を明け渡すことになります。

時代が下がって、生駒時代には、生駒氏は高松城を築城する前に、引田城を居城にすべく、手を加えたこともありました。




平城、立地によっては難攻不落 [城]

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十河城(中央の本丸跡には寺院がたつ、隣は池) バーズアイ、香川

山は大軍に攻められた時に逃げ込む格好の立地だっため、南北朝時代以降、武士は領内の山に山城を築くようになりました。ところが、必ずしも山城のみが、防戦用の城として秀逸だった訳ではありません。平地に造られた平城も、山城のような急峻な崖はないものの、立地によっては盛んに築城されました。それでは、平城はどうして有効だったのでしょうか。

Q.戦国の武士が平城を築いたのは・・なぜ?

A. 弓矢をたくさん持ってたから
B. 落とし穴があったから
C. 周りに木を植えて隠されていたから
D. 敵兵がぬかるみで足を取られたから

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平地は、大軍に囲まれるとひとたまりも無いように思われますが、要は敵兵が攻めこめなければ良い訳ですから、城の周囲にそうした仕掛けを設けることができればいいわけです。平城の多くは、湿地等を利用したぬかるみが設けられていました。平城の周りにつくられたぬかるみでは、敵兵は足をとられ、船も出せないため侵入しにくいわけです。ただし、備中高松城のように、水を使った防備を逆手にとられて、水攻め(秀吉による)によって落城した例もあります。

十河城は西に池、東に断崖、南に大手があった、といいます。写真は大手側から撮ったもの。東の断崖とは、おそらくその下に流れる川に手を加えて堀のようにしたものと言われています。こちらから攻める敵兵はぬかるみのため容易に進めなかったものと思われます。

十河氏は地方豪族でしたが、足利幕府を一度は手中にした三好長慶の弟の一存が養子に入った後、香川県の東部を中心に勢力を広めたとか。その養子の十河存保は、戦国末期に四国統一を果たした土佐の長宗我部元親をこの城で一度は退かせることに成功しています。平城が必ずしも弱い訳ではない例でしょう。





山城、守る城のはじまり [城]

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空堀:天霧城  バーズアイ、香川

鎌倉時代には、領地の中に堀を掘って築かれた城も変化し始めました。室町時代になって南北朝の騒乱時代になると、武士の集団が日常的に戦闘するようになりました。南北朝時代以降、武士は領内の山に山城を築くようになりました。とりわけ、楠木正成の赤坂千早城の合戦以降、山城が有効であることが知られ、領内の山に城が築かれるようになったようです。それでは、山城はどうして有効だったのでしょうか。

Q.南北朝時代の武士が山城を築いたのは・・なぜ?

A. 山菜などの食料がたくさんあるから
B. 山からの見晴らしがいいから
C. 少数の兵で大群を退けられるから
D. 山の空気がうまいから

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山は、大軍に攻められた時に逃げ込む場所としては格好の立地でした。下から攻めてくる敵に、武器がなくとも石や丸太を投げつけて攻撃することもできます。また、富士山のような独立峰よりも細長い尾根が選ばれるのは、山頂に曲輪という建造物を複数つくるのに都合が良いからといわれます。ただし、敵の侵攻を妨げられるような、四方のうち二面は急峻な崖がある場合が多い。


天霧城は香川県西部を支配していた香川氏の山城で、国史跡にも指定されています。室町時代に細川氏が讃岐の守護になった際に入部した東国武将といわれます。戦国時代には、三好氏の攻撃に耐えたことでもこの山城の防御力を伺い知ることができます。写真は、空堀。敵の侵攻に際して、足止めをするためのものだとか。







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城の始まり [城]

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仲村城跡(後ろに土塁跡がみえる) バーズアイ、香川

桃太郎に退治された鬼が棲んでいたような城は朝鮮式山城とか古代山城と呼ばれています。これは、天智天皇が白村江の戦いで敗れ、逆に日本に攻め込まれるのを警戒して、九州から瀬戸内海沿岸に築城された物といわれます。瀬戸内海を臨む香川県には、屋島や城山に古代山城の城跡が残っています。

その後、東北地方のエミシに対する攻撃を除いて、争乱はほとんどなく、城は築かれなかったようです。次に出現する城らしいものは、平安時代後期から鎌倉時代の武士の舘でした。この頃の武士は荘園の管理者だったといわれますが、それでは、この時代の武士の城はどんなところに造られたのでしょうか。

Q:荘園管理をしていた武士の城が造られたのは、・・・

A1.領地内の平地
A2.川や海の崖の上
A3.山の上
A4.洞穴

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荘園を管理する武士の舘の周囲には、堀が巡らされ、独立した様相でした。武士同士の争いも領地の境界争いや相続争いが主なもので、城に立てこもる必要はありませんでした。この土塁を巡らされた武士の舘が日本の城の始まりといわれます。

仲村城は平安時代の後期の源氏の行司貞房の居城でした。鎌倉時代に堀を深く、土塁を高くして平城にされたそうです。現在もその土塁の一部(写真の背後)が残っています。





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