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山城、廓 [城]

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連郭跡 バーズアイ・香川(西長尾城)

戦国時代の山城の大手道には、小さいながら数多くの曲輪(郭)が配置されました。城が築かれた山の尾根沿いに建てられたようです。それでは、山城はどうして有効だったのでしょうか。

Q.山城では、尾根に多数の郭が築かれたのは・・なぜ?

A. 食料を保管するため
B. 兵を駐屯させるため
C. 女を住まわせるため
D. 敵の侵攻を妨げるため

こたえはこちら(クリック)



戦国の山城は、大軍に攻められたときの籠城戦に使われましたが、山上からの攻撃のみでなく、敵の侵攻を妨げるさまざま仕掛けがありました。通常、急峻な崖で守られているため、通路は尾根沿いにあります。その通路上に郭をおいて敵の侵攻を妨げる構造になっていました。


西長尾城は、室町時代に後の幕府管領になった細川頼之に従い、白峯の合戦で軍功をおさめた長尾氏の居城です。複数の支城をもっていました。戦国末期に、土佐の長宗我部氏が讃岐に侵攻してきた際に、天霧城主香川氏の仲介で開城し、長宗我部氏の軍門に下りました。西長尾城は讃岐の街道を見渡すことのできる立地にあったため、長宗我部氏の重臣の国吉氏が入城し、讃岐攻略の拠点にしました。そのため、国吉城とも言います。写真は、郭跡(連郭)。

バーズアイ・香川(西長尾城)




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