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海城(その特殊な役割) [城]

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引田城(山頂に引田城跡がある) バーズアイ、香川

戦国時代、大軍の攻撃から逃げ込んだのち、上から攻撃するのに格好な山城、あるいは敵兵の足をぬかるませる平城がつくられました。これらは、防戦用の城として秀逸だったようです。これらのほかにも、岬や海岸の平山に海城が築かれました。海城は、山城のような急峻な山ではなく、岡のような平山につくられたようです。この海城にも特殊な役割があったようです。


Q.戦国時代、海城の特殊な役割とは・・?

A. 水練の練習をする
B. 海を見張る
C. 水軍の拠点とする
D. おいしい魚をとる

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海城の目的は、主に水軍の拠点となった湊の防御や水軍の指揮だったといいます。また、貿易の盛んな湊ではその統治も重要な役割といえます。防戦のための城というよりは、出陣の城あるいは見張りの砦と言えます。しかし、完全に無防備という訳ではなく、ふつう海城の周囲は海で囲まれ、海自体が堀の役割を果たしています。

引田城は香川県の東の端、徳島との県境に近い岬に築城された城です。瀬戸内海とはいえ、小島の少ない開けた播磨灘に面し、海を見張るには都合の良い立地と言えます。引田城は香川県東部の豪族、寒川氏の家臣の築城とされ、寒川氏の水軍、あるいは貿易の拠点である引田浦を統治する城でした。室町時代、讃岐を支配した細川氏が応仁の乱以降衰退すると、細川氏の家臣だった寒川氏は中国の雄大内氏に近づき、その庇護のもと勘合貿易で潤いました。その中心的な役割をになったのが、引田浦と引田城ということです。

しかし、戦国末期、阿波(徳島)の三好氏が勢力を強めると、三好とその姻戚関係にある十河、さらに安富氏らに攻められて、引田城を明け渡すことになります。

時代が下がって、生駒時代には、生駒氏は高松城を築城する前に、引田城を居城にすべく、手を加えたこともありました。




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